地元の西鉄バスを中心に、いろいろな地域のバス路線風景を記録しています。西鉄以外の地域にもすぐ行きたくなるので、どこかで「九州路線バスの旅」とでも改名しようかと検討中ですが、西鉄バス中心に回帰しようという気持ちもあります。雑誌「秘境路線バスをゆく」に寄稿させていただきました。

2015年04月02日

西新パレス前プラリバ前


西新のプラリバは、今年7月31日閉店。
もう20年単位で行ってない気もしますが、なんとなく最後に一度、という感傷。



「西新パレス前」。姪浜方面には行かなくなりました。



「25」最後の記憶。



「1」最後の記憶。
写真で残しておかないと、すぐ忘れます。
検索かけたら自分のブログが見つかって、書いた覚えのない記事がしばしば。



廃止のお知らせ。



最後の乗車、どっちか選べる状況でしたが、「25」で貝塚に行きました。





Posted by ちょんびん at 21:02│Comments(9)
この記事へのコメント
こんばんは(^o^)

プラリバの前のエルモールが確か私の中学入学とほぼ同時期だったと思いますf(^_^;

地下鉄も少し遅れて開業しましたが、駅のコンコースの匂いはいまだに覚えております。

西新ー天神間の運賃は150円。1ヶ月定期券は3600円。バスは均一料金時代だったため110円。1ヶ月定期券は2420円だったと記憶しております。もちろん学生運賃です(笑)


こんな感じだったので当然ながらバス優勢でしたし、象徴するかのように3番西新パレス始発の博多駅行きバスもありました。

今ではバスと地下鉄の運賃も大して違わず、時間に正確な地下鉄が優勢になってしまいました。



余談ですが私が中学に入った当時は、6番は現在の明治通りを通って、現在のプラリバの手前から左に曲がって狭い道を通ってフタガミ前から城南線へ出ていたのをちょんびんさんご存じですか?


その時は西行きの西新パレスバス停はその角の手前にあって、西新一丁目バス停はなかったのであります。

地下鉄開業直前に西新一丁目バス停ができて、パレスバス停は現在地に移動して6番は昭和通り経由となり鋭角に曲がるようになったのです。

なぜか6番はボロいバスばかりを運用していたのでよく覚えています。
Posted by 暇工作 at 2015年04月02日 21:34
こんにちは。
暇工作さん、私よりちょいとお兄さんですね。
均一区間が110円!懐かしい時代です。

幼稚園にも原往還から弥生二丁目までバスで通っていた私、
初めて「6」に乗った際、整理券がなくて驚いたのを思い出します。
都心部の均一区間だけ走ってたからですよね。

岩田屋の手前を曲がっていたの、よく憶えております。
私がバスの路線図を見だしたのは昭和52年からで、
それ以前からあったか、以後にできたかで、
路線やバス停を古い、新しいと区分することになっております(笑)。
Posted by ちょんびんちょんびん at 2015年04月03日 15:37
ありゃー年齢がわかってしまいましたね(笑)


そうなんですよねー。均一区間しか走らないから整理券はなかったですね。


昭和52年くらいになると私もあまり記憶がないのです。昭和40年くらいだと親父が車掌をしていたので、3番が桧原から博多・空港へ行ってたなどと聞いているので少しはわかるのですが…。

10年違うと路線が全くかわったりするので楽しいといえば楽しいのですが、10年ぶりにバスに乗ると浦島太郎状態になってしまうんですよねー(笑)
Posted by 暇工作 at 2015年04月03日 17:58
そうですね、10年という時間もそうですし、
路面電車の廃止は大きな転換点だと思います。
5の倍数の数字が電車代替につけられて、
茶山線が「15」から「14」に変わったり、
路線も大きく動いていたりしますし。

いまはこういうブログという記録ツールができましたので、
10年後は新しい気持ちで懐かしむことができるのではないかと、
ちょっと楽しみなところもあります(笑)。
Posted by ちょんびんちょんびん at 2015年04月04日 14:02
おはようございます。
6がプラリバの手前が曲がっていたという話は聞いたことがありましたが、本当だったんですね~。
小さい頃は中央区に住んでおり、幼稚園通園のため6を頻繁に利用していました。
整理券がなかったのも覚えていますし、整理券発行機に赤紫色(?)のカバー、運賃表に鉄板がかぶせられていたのも覚えています。
自分が6を利用したのは1983~1985年で、その当時の車両は53MCの初期型だった日野の7026~7035(車体の形状から、おそらく53MC試作車の一部を70代に割り振ったものと思います)、当時の53MCの最新鋭だったいすゞの1599・1600・1606でした。
Posted by E52 at 2015年06月11日 09:59
E52さん、こんにちは。
ダイヤ改正など、正確な年代を記憶しておくのは非常に苦手で、
話半分はおろか、話2割くらいの信憑性で聞いていただきたいのですが、
「6」がプラリバの東側の道を走っていたのは、本当の話です。

「6」に関しては、私より詳しいのが身近にいますので、
彼に検証をしてから、あらためてコメントさせていただきます。
Posted by ちょんびんちょんびん at 2015年06月12日 15:40
このブログにもしばしば登場します、同い年1972年生まれのT氏と、
情報のすり合わせを行いました。

プラリバの東の道を「6」が両方向走っていたのが、
我々が小学生に上がる前の、1978年まで。
そのあと、外回りだけが走るようになり、
「6」が走らなくなったのが、西新岩田屋開業の1981年前後ではないか、
という推測に落ち着きました。

どなたか、確定的な記憶をお持ちの方は、
ご指導いただけると幸いです。
Posted by ちょんびんちょんびん at 2015年06月13日 22:36
こんばんは。
自分が生まれた頃まで6は両方向プラリバの手前の道を走っていたんですね。
ということは、その当時は一方通行ではなかったということですね…。
道もそんなに広くないので、バスが走っている姿を想像できません。
Posted by E52 at 2015年06月14日 22:41
そうですよね、いまは一方通行ですよね。
でも「46」の折立付近とか、原~小田部とか、
あと美野島商店街の中も元はバス通りですから、
今とは道幅とバス通過の感覚が違ったんでしょうね。

その時代をもっと鮮明に憶えていたら、
今の情熱がもっと高いものになっていたか、
それとも現状を物足りなく感じたか、どっちでしょうか。
Posted by ちょんびんちょんびん at 2015年06月15日 19:22
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