地元の西鉄バスを中心に、いろいろな地域のバス路線風景を記録しています。西鉄以外の地域にもすぐ行きたくなるので、どこかで「九州路線バスの旅」とでも改名しようかと検討中ですが、西鉄バス中心に回帰しようという気持ちもあります。雑誌「秘境路線バスをゆく」に寄稿させていただきました。

2015年05月09日

東中洲


バスが見える、中洲らしい場所って、どこでしょう、と考えるのです。



隘路、という明確な嗜好のある私は、
その価値観でいけば西鉄より産交や大分のほうがずっと素敵なので、
ブログでの西鉄の扱いを蔑にしがちなのですが、
きっと失われてから惜しいと思うのは、地元である西鉄。

ただ、当然そこにあるものとしてバスが走っているうちは、
なかなかその有難みに気づけないのも確か。
乙石や西山はともかく、南金武と羽根戸くらい幕写真撮っててもいいのに。

まあそれは当時、今と比べて写真が格段に金のかかる趣味だった、
という側面もあるのですが。フィルム買って、現像して、プリントして。
それだけの儲け口を失ってなお、富士フィルムよく存続してますよね。
感光技術の研究を元にした化粧品開発、先見の明があったのだと思います。



おいしい佐賀牛を食べさせる店、季楽。肉もですが、米が美味いです。
窓に映ったオープントップバス赤、その前でトトロのように傘を差す私。
雨が降ると、当然ながらFOTBの乗客は激減するらしく、
対応策として屋根の設置が予定されているとか。開閉式なんですかね。

わたくしのバス好き友人は、旧はかた号のエアロキングを、
屋根切って走らせればいいのに、と言ってました。余談です。



ということで、中洲のランドマークを探す旅は続きます(笑)。



このブルガリアヨーグルトは、けっこう中洲を代表する風景じゃないかと思います。



であい橋とバスの撮り方がわかりません。



んー。



昭和通りにあるのが中洲バス停で、明治通りにあるのが「東中洲」。
西鉄バスの旧来の路線図で福岡の地形を把握してしまった私は、
昭和通りも明治通りも東西に走っている、という誤解から抜けきれずにいて、
あっちが中洲なら、こっちは南中洲じゃないのか、と長らく思ってました。

追記の地図をご確認ください。夏場は那珂川の河口に向けて、陽が沈みます。
中洲中央通りも上川端商店街も、南北より東西軸に傾いています。




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この記事へのコメント
この地域のことを「中洲」と呼ぶようになったのは、それほど古いことではなく、昭和40年代頃からではないかと思います。それまでは、「東中洲」と呼んでいました。それに対して、那珂川の西側は「西中洲」。
明治通りのバス停は古い時代からの市内電車の電停を引き継いでいるわけですから、古い呼び名の「東中洲」を名乗り続けてているのでしょう。昭和通りのバス停は、電停に比べると、ずっと新しいですから。
「中洲」と呼ばれるようになったのは、住居表示が施行され、あの一帯が「中洲〇丁目」と表示されるようになったことがきっかけだと思います。
Posted by Tokyo Chikushi at 2015年05月09日 08:50
なるほど、中洲そのものの東西ではなくて、
那珂川を挟んで薬院新川との中州との対比で、
西中洲と東中洲と考えればよいわけですね。ありがとうございます。

そしたら、昭和通の中洲バス停は、なんで中洲なんでしょうね。
繁華街からは北に離れているのに、中心地のような誤解を受けると、
地元の方から文句が出そうな位置関係に感じますが。

それとも言われるように、東中洲という地名が伝統的なもので、
中洲には誰も思い入れがないということなんですかね。
Posted by ちょんびんちょんびん at 2015年05月09日 09:40
手許に資料がないので、はっきりしたことはわかりませんが、
昭和通りにバス路線が通じたのは、明治通りに比べてかなり新しいのではないでしょうか。それとも、たとえ早い時期に昭和通りに路線があったとしても、「中洲」バス停があったかどうか、疑問です。
昭和40年代でさえも、昭和通りのバスはバス停も少なく速く走る、という印象をいだいていましたから。

どちらにしても、昭和通りにバス停を作る時に、まだ「中洲」というバス停名が先行するバス停に使われていなかったから採用した。あるいは、ちょうど住居表示により「中洲」という地名ができたから、採用した。
このように、推測しています。

「中洲」と「東中洲」に関する私の記憶について。
私の父は昭和40年代後半頃から昭和60年代にかけてよく飲みに行っていて、「中洲に行ってきた」とよく言っていたのを憶えています。
私の祖父は昭和30年代から40年代前半まで(おそらく20年代も)、闊歩していた二〇加の名人ですが、必ず「東中洲」と言っていました。祖父が「中洲」と言うのを聞いたことがありません。
私は、もう東京なので中洲にはほとんど行けず、残念です。
書物なども、古いものを読むと、「東中洲」と書かれているものが多いように思います。
映画「点と線」で、刑事が、「被害者は、東中洲の旅館に泊まっとったとじゃ」と言うセリフも印象深く耳に残っています。
Posted by Tokyo Chikushi at 2015年05月09日 19:24
解説ありがとうございます。中洲バス停の位置は、
おっしゃる通り、あの地域全体を中洲という住居表示にした時期と、
中洲というバス停が存在しなかったことが起因と思います。

また、昭和通りのバス停が、北東部郊外から福岡への路線を意識して、
繁華街への最寄りとして、中洲を名乗った側面もあるのかもしれません。
その時には、すでに大きな範囲を指す地名として、
中洲が今と同じような感覚で使われていたのでしょう。

私は昭和47年生まれで、出身は福岡でもなく、
周囲に東中洲を呼称として使う人を持ちませんので、
先に中洲があってその東としての東中洲ではなく、川の東西での東中洲、
そしてそれが、繁華街の代表地名であったこと、
新しい知識として拝見いたしました。ありがとうございます。
Posted by ちょんびんちょんびん at 2015年05月10日 07:55
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