地元の西鉄バスを中心に、いろいろな地域のバス路線風景を記録しています。西鉄以外の地域にもすぐ行きたくなるので、どこかで「九州路線バスの旅」とでも改名しようかと検討中ですが、西鉄バス中心に回帰しようという気持ちもあります。雑誌「秘境路線バスをゆく」に寄稿させていただきました。

2010年07月16日

室見一丁目


5才のときに父の転勤で福岡に引っ越してきました。33年前のことです。
最初に住んだのは、室見三丁目でした。
その当時の最寄バス停、「室見一丁目」です。当時は「室見橋」でした。

地下鉄が出来た際、室見駅の位置の都合上、
室見橋バス停よりも室見橋に近いほうに駅のバス停ができることになり、
橋の最寄でないバス停が室見橋を名乗ると、名前がややこしい
と判断されたのではないかと思うのですが、室見一丁目に改称されました。

「○○一丁目」よりは「○○」と何もついていないバス停のほうが格が上、
という妙な階層意識が昔から私の中にあり、
原や小笹のように、中心交差点のそばにある丁目のないバス停をリスペクトしています。
そのため、路面電車の複線区間の西端であり、由緒正しき室見橋だったバス停が、
地下鉄という新交通システムの開通と共に「一丁目」を付与されてしまい、
なんとなくここが重要地点からクラスダウンしたような印象を受けたことを、
今でもしつこく覚えていますw

ここからすぐ南にある、「南庄」の場合、
先に「202」の路線上に二丁目と三丁目があり、
次に室見側からの路線ができたときに、後から「南庄」ができるという推移のため、
何もつかない「南庄」の格が上なのかどうか、私の中で答は出ていないのですが。

南庄を通過するバスは「10」「9」「93」など番号も安定せず、
どこが始発のバスがここまで達するのかは必要な要素ではなく、
結局西新あたりから路線が繋がっていれば事足りる地域なのだろうと思っていて、
私にとっては西の月見町板付七丁目のようなイメージを持っていました。
そうしたら「8」ができて、実際西新までしか行かなくなり、
自分の勝手なイメージは強ち間違いでもなかったのかと思いました。
ところが最近は「503」が好調ですので、
南庄バス停を通過するバスは増加傾向で、ちと出世してるような感じです。



いまは地下鉄の利用者も増え、
南側から都心に行く人は「502」「503」を使うことも多いのか、
室見一丁目は「1」「9」などが発着する単なる途中バス停に成り下がっていますが、
以前は終着バス停だった名残なのか、年代もののバス路線図が残っています。



福浜まで「62」が来ています。西公園下も健在です。



原北中学校まで行っていたのが「93」の時代です。
筑肥線代替の「69」が姪浜までちゃんと走っています。



「2」が城浜団地に達しています。
香椎浜営業所は、まだありません。



最近「46」の延長で路線が復活した、
井尻六ツ角から南福岡に「50」が走ってました。



今はなき野芥二丁目、「3」が走ってます。
福大前には「60」もいます。



乙石、西山、懐かしいです。
「97」が西山まで来ています。

って、自分で持っている路線図見ればいいことなんですけど、
出先で見つけるのはまた違ったロマンを感じます。厄介な体質です。



バス停に、



路線バスが来たり、



観光バスが通過したり、



室見橋~愛宕下だったところに、室見駅バス停を挿入してますので、
バス停間の距離は近いです。室見駅バス停にいるバスが、
歩道の先からはっきりと見えます。



駐車場がないので、駐車車両でいつもバスの運行が阻害される、
ハイマートかどた、以前は門田百貨店でした。
荒江四角西側のサニーに駐車場ができてしまったので、
福岡青エリアで違法駐車といえば真っ先にここが思い浮かびます。
弁当は250円で品数も豊富。このスーパー、特別安い商品がいくつかあり、
たまに覗くと楽しいです。

店内を抜けて、南側の細道、事務所棟の方へ回ると、
30年前とあまり変わらない風景が広がっているように感じます。
実際はとても変わっているのかもしれませんが。

最近西鉄バスを蔑ろにしているので、
原点回帰の気持ちを込めてこの記事を書いてみました。
ただ、私のバス旅の原点を思い起こしてみると、
確かに「11」の長住六丁目というのはあるのですが、
旅と呼べるくらいちゃんとしたものは、
小1のとき原から昭和バスで古湯温泉まで行ったのが最初なのではないかと思います。
ということは、最初から私のバス旅は西鉄に留まっていなかったのかもしれません。

さて三連休、どこに行けるでしょうか。


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Posted by ちょんびん at 22:58│Comments(12)福岡青
この記事へのコメント
ご無沙汰してます。私は、
6才(小1)のときに父の転勤で福岡に引っ越してきました。30数年前のことです。
最初に住んだのは、室見五丁目(筑肥線と室見川の近く)でした。
その当時の最寄バス停、「室見一丁目」。ここからは、ちょんびんさんと同じです。

私が小さいころは、まだチンチン電車が健在だったので、均一料金区間を電車
で乗りまわったのが旅の始まりでした。
Posted by SoH at 2010年07月21日 22:33
ごぶさたでございます。
室見五丁目ですか、ご近所ですね。
私は金屑川のそばです。
室見小学校の入口近くに日通の社宅があり、
その道を挟んで向かい側でした。

私が福岡に引っ越してきたときは、
路面電車は渡辺通りから東、貝塚までしか残っていなかったので、
たまに中央に行くと、乗りたいとダダこねてました。
Posted by ちょんびん at 2010年07月22日 18:02
はじめまして。mixi経由でここに来ました。
自分は五丁目に住んでいますので最寄のバス停は南庄になります。
室見一丁目バス停の路線図は懐かしいですね。
93が室見団地に行っていることと2番が城浜団地に行っていたことから1983年当時のものと推測できます。
横やり失礼しました。
Posted by E51 at 2010年07月26日 23:30
E51さん、はじめまして。
毎年の路線図と対照すればいいんですが、無精してすいません。
情報ありがとうございます。

「2」城浜団地、そんなに昔だったんですねぇ。
確かに私が最初に乗ったのは小学生の頃でした。
地下鉄が昨日で29年、城浜団地や香椎花園、
「49」が飯倉までというような、天神を挟んだ路線延長が、
地下鉄開通に対抗する措置だったんで、ちょうど計算が合います。

またコメントお待ちしてます。
Posted by ちょんびん at 2010年07月27日 18:48
ちょんびんさんこんばんは。
自分が持っている一番古い路線図が1983年のやつだったのと地元ネタなので書かせていただきました。
「93」はいろんな意味で懐かしいです。大きな理由としてはやはり亡くなった祖父が「93」を運転しており、
小学校から帰宅したあととかに何往復か乗せてもらったのが大きいです。思い出すと涙が出てきます。
1987年当時「93」に使われていたのは覚えているかぎりだと
2611・1703・1705・3011・3055・322*などだったと思います。小3当時の記憶なのでちょっと曖昧です。
「2」城浜団地に関しては西鉄の80周年の冊子か百年史で言及されていたと思います。ただ、野方と四箇田団地のどちらから出ていたのかは分かりません。
「49」の飯倉行き懐かしいですね。写真で見ただけですが、当時最新鋭だった那珂川のCJM(16代)が運用に入っていたようです。

あと本文にあった南庄を通っていたバスは「9」ではなく「7」です。ルートは今の「8」と同じで当時は室見団地が終点でした。
いろいろ書いてしまってすみませんでした。
Posted by E51 at 2010年07月27日 22:43
E51さん、こんばんは。
「93」、お祖父さんが運転されてたんですか。
それは大きな思い出ですね。

私は車体番号の知識がまったくなく、
というのも車両の見分けがつかないんです。
それがわかれば城浜団地が○壱か○箇かも区別してるんでしょうが、
原在住ということもあり、まったく記憶にありません。
城浜団地から乗ったのがどっち行きだったか覚えてればいいんでしょうけど、
天神あたりまで戻ってから、乗り継いで帰ったのかもしれません。

>「9」ではなく「7」
ありがとうございます。よくこういう嘘を平気で書きます。
最初南庄に北側からバスが走り出したときが「7」で、
姪浜止めの幹線と野方方面郊外線の番号が統合されて「1」になり、
飯倉方面から走るようになって「93」に変わってから、
城南線経由の終着点として「10」が走った、という順序でしたでしょうか。
「93」じゃなくて「9」なら「7」から連番なのにとか思ったのか、
あまり考えなしに書くと、こういうことになります、すいません。
Posted by ちょんびんちょんびん at 2010年07月27日 23:15
ちょんびんさんこんにちは。
「93」は祖父との思い出がつまっているので藤崎止めになるのを知ったときは悲しかったです。
親が言うには自分は幼稚園の頃から車体番号やメーカーの知識があったようです(笑)
ただ、幼稚園の頃は福岡地区にUDがいなかったのでUDがあるのは知らなかったです。
「2」の城浜団地行きのことですが、西鉄百年史に1983年3月22日改正で城浜団地まで延長と書かれていましたが、
それ以上のことは書かれていなかったので真相は闇の中です。
それと「2」は1981年7月26日のダイヤ改正までは明治通経由だったことも判明しました。
室見団地へ行く路線の流れはそれで大丈夫だと思います。
「7」の室見団地行きがいつできたのかは分かりませんが、1979年当時の一般の地図には載っていなかったので
1980年か1981年に路線ができたんでしょうね。1982年当時の時刻表には「7」室見団地行きは存在したので、1983年に「93」に変わったんでしょうね。
そういえば「10」原北中学校行きはいつできたんでしょうね。1990年当時の路線図には記載されていたので1989年あたりにできたのかな。
室見一丁目バス停の路線図は「93」と「202」の終点が原北中学校となっていたので1984年当時の物でした。こちらこそすみません。
Posted by E51 at 2010年07月28日 16:05
こんにちは。
幼稚園時代から車体やメーカーの知識、
それを教えた誰かがおられたんでしょうね。
私も幼稚園時代から姪浜~博多間のバス停を暗誦していたようですが、
車体の方には当時から関心が向いていなかったようです。

「2」は確かに明治通り経由でした。
当時は貫線経由と呼ばれてましたし、
年配の方は電車通り経由と当然のように言ってました。
で、貫線は西からのバスのメイン通りという印象があったので、
昭和通り経由になった時はのけものにされたような気がしました。

南庄バス停ができたのは、79年か80年のことだと思います。
藤ヶ丘団地までの路線ができたのとか、「19」ができたのもその頃かと。
原北中学校まで延びたのは、もうすこし後ですね。
私が室見に越してきたのが77年の9月、
原に越したのが78年の10月でして、
リアルタイムで上記の変更が行われたのは記憶にあります。
それがいつのことなのかは、幼くて明確ではないのですけれど。
Posted by ちょんびん at 2010年07月28日 19:47
ちょんびんさん、E51さんこんばんは。
「2」城浜団地は四箇田団地行き、「2」香椎花園は室住団地行きでした。当時はまだ室住団地までしか路線がなく、野方まではつながってなかった頃だと思います。担当は○箇だけでなく、東の○香(今の香椎浜でなくその前の香椎、西鉄香椎の横)○土もあったと思います。当時、室住団地の担当はどこだったか忘れてしまいました。昔の冊子型の西鉄時刻表を引っ張り出してくれば、見当がつけられるかもしれませんが。
Posted by 青葉台神宮駅 at 2010年07月29日 00:14
こんばんは。
城浜団地と香椎花園、ちゃんと担当の線引きがあったんですねぇ。
当時はそんなこと考えもせず乗っていました。
というか、今もあまり考えていません。
「8」を金武が担当したり、なんてことを意識しだしたのは、
最近ほかの西鉄関連のブログを読み出してからです。
それまでは、ほんとうに漫然と、あえて褒めれば純粋にw
乗ることだけ楽しんでいたのだなぁと自分で改めて思います。
Posted by ちょんびん at 2010年07月30日 21:01
昔の話題ですが、失礼いたします。
2番の貫線経由は、開通時の地下鉄(室見〜都心部)との区間競合を回避するために、昭和通り経由となったそうです。
開通時は室見〜都心部で完全に区間競合する点で、1番でも3番でもなく、2番のみが昭和通り経由となったのでしょう。
明治時代以前は西中島橋が福博の交通の要だったようですし(明治通りの西大橋の架橋は明治期、昭和通りが拡幅で50m道路となったのは戦後)、2番はほぼ唐津街道〜三瀬街道を走る点で個人的には好きです。
Posted by むろみん at 2011年02月19日 02:29
むろみんさん、こんにちは。

完全な区間競合という意味では、「1」のほうが室見から一緒ですが、
「1」「2」「3」それぞれの当時の本数や、
「1」「3」の路線としての格みたいなものも考えられたのではないかと思います。
「1」は路面電車代替として姪浜から走ってるわけですし、
「3」は国道263号沿線で、多くの路線を抱えていましたし。

それから、藤崎にバスターミナルが建設されましたので、
「2」沿線の郊外と地下鉄の乗り継ぎを、
促進したいという思惑もあったのではないかと推測します。
あくまで、市の側の立場でですが。

「2」は地元でもあり、私も好きです。
三瀬街道が、そのまま国道になっていたら、
内野や曲渕に行くバスは「2」だったりして、
今とはバスの流れも違っていたかもしれませんね。
Posted by ちょんびんちょんびん at 2011年02月19日 11:45
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